ウルトラC

好きなものを好きなだけ

キモチの名前

こんばんは〜〜〜。

今日はものすごく思考した有意義な一日なのでブログを書きます。

思考をつらつらとならべてみます。


そもそもこのブログを始めた理由として、思考を言語化するという工程がわたしには必要だったということが挙げられます。まあこれは最近気づいたのですが、自分の思考形式として、頭の中で感情がせめぎ合っててわたしにはそれが思考なんですけど、それを表現する言葉、つまりまあ感情の名前を知らないからうまく整理して考えられない。物事の本質に触れるような話せるときに言葉に詰まってしまうのは適する言葉を知らないから。ぜんぜん思考が論理的でなくって本当に自分も飲み込まれてしまうんじゃ無いかというような感情の濁流が脳内を襲う。う〜〜んこのままじゃダメだなあとおもって、名前を探す旅に出たわけなんですけど、それは本当に友人の話す言葉、小説、映画、知らない人のブログ、いろんなものから見つかる。そしてそのときにわたしはいつも幸福と絶望に押しつぶされそうになる。わたしとはそういう人間なのです。

圧倒的な感受性に出会うと本当に飛べるほど鳥肌が立って、泣いてしまうこともある、とにかく尊敬の念しかないんです。妬みもそねみもそこにはない。だけど同時に平凡でなんでもない自分に絶望してしまう。

自分にしかない決定的な何かがあるとは思えなくて、遣る瀬無くなるんだけど、でも自己肯定感がとても低いのは大問題だというのが自分の意見だから、それなりに自分の好きなところはあるつもりだ。ここは良いところじゃないか、ここはもしかしたら強みかもしれない、そう思えるところはいくつかある。だけどふとした拍子にウィークポイントになる二面性を持っていることに気づいて絶望する。自分のその自己肯定感はポーズに過ぎないのだと嘆く。

わたしはなんだかめんどくさい人間なのだ。

楽して生きようと思う。自分よりも気楽に生きている人を見てそうすると良いのだと思う。自分がバカを見る気分になる。でもほんとうはわたしはそうありたくないのだ。ストイックさが身を滅ぼす。だけどなりたくない自分にはなれない、頑固者なのだ。

でも卑屈にはならない。それはもうわたしを大事にしてくれている全ての人に顔向けできない行為だ。仕様がない受け入れるまでだ。ひっそりと絶望に浸ってまた歩き出せばいい。


自己評価って、成長過程で周囲の人の評価で決まってくると考えていて、何もわからない状態(これはだいぶ幼いとき)ではものの善悪って判断つかないわけで、親に褒められて初めて褒められた行動が善なのだと認識するとおもっているんだけど、そしたら鏡でしか自分の顔がわからないように、わたしにとってのわたしというものは他人の評価の写しでしかないのではないかと思う。じゃあ他人から見たわたしと自分にとってのわたしに乖離があるとき、その自分にとってのわたしは幻なのか、ニセモノなのか、一体なんなんだろう、自分しか知らないとおもっていた自分だけの領域が実は他人が作り上げたものなのだとしたら、とてもとても恐ろしい。この恐ろしさは、死んだらどうなるのか子供の頃に考えたときの恐怖と同じ類なのだと思った。恐ろしいなあ。

周りの評価と自分の自分に対する評価が乖離しているのがわたしだと思う。周りの評価の自分がとても生きやすくてとても愛おしいがとてもとても気味が悪い。どちらもわたしなのだけれども。ふとその距離に気づいたときに、そっと孤独が忍び寄ってくる。誰もわたしをわかってなんてくれない。そういうちょっとした孤独。誰にでもある感情。悲しみはない、でも一握りの絶望。


SNSで語るやつダサいみたいな風潮全部消えてしまえとおもう。あと何でもかんでも否定しなきゃ気が済まないひとはほんとうに来世では虫けらになっておしまいという気持ち。主体的に考えてください。受動的に誰かの発言を聞いてからじゃないと発言できないような生き方はしたくない。意見というのは発言者の神聖で侵されてはならない領域だと思っていて、誰にも否定できないもの。その思考を受け入れるか、受け入れないかの次元の話であって、善悪、正誤の話ではないのだ。「あなたにはこういう意見があるんですね、でもわたしはこう思います」という発言にするべきだ。ほんとうに生きにくい世の中。わたしの意見はわたしのものだ。正解も間違いもわたしの中にあってわたしが学んでいくからだれもだれも否定なんてしないでくれ。という感情。


思考を止めてはならない。じっくり向き合ってじっくり考えないと。今のわたしにはそれがきっと足りない。感受性がじっくりと長い時をかけて死にゆく音を忘れてはいけない。思考を捨てたときたぶんそれは心の死だ。語ることは学生の特権だ。理想を大きく掲げよう。未来も全部何もかもわからないから、今を見つめて考えないと。

もっともっと思考しなくちゃ。