ウルトラC

好きなものを好きなだけ

日日是好日

こんばんは。
お久しぶりですネ

タイトルは「にちにちこれこうじつ」と読みます。

今日はこのタイトルの映画を観に行ってきました。

朝からどうしても大学に行きたくなくてごねていたわたしを母が誘ってくれました。
映画は大好きだけど、特に観たい映画は無くて、それほど興味を持っていたわけじゃないけど、まあ観に行ってみるかあ。そんな感じ。

結果、素晴らしかったです。

これぞ日本の映画。映画館でしか見ることのできない映画でした。

こういう映画って、ほんとに何かの片手間でみたら没頭できない繊細さがあるので、そういう映画に限ってわたしは映画館で見たい人なのですが、ほんとに繊細で柔らかくて素晴らしかった。

この映画を観ながら考えたことについて少しだけ書いてみようと思います。



五感で感じる

今を生きる中でやっぱりいろんなノイズやバイアスがこの世には溢れかえってて、見えていたものが、見えなくなって、見ようとしなくなって、見ることができなくなってて。
でも昔ながらの大きなお家の庭であったり、自分の身近にはなくても全く知らない景色じゃ無くて自分の原風景のように知っていて、ものすごいスピードで加速していく今の社会でも、「在る」ものはずっと変わらず在るんですね。家だけじゃないにしても着物であったり、お茶や掛け軸などの「文化」であったり。変わらずに在るんですよね。
日本の四季もそう。秋がほとんどなくなってしまったと言われても、やっぱり秋の香りは在るし、梅雨と秋雨はやっぱり違う。
それを生きている中で見えなくなって聴こえなくなって感じなくなって貧しく醜くなっているのは自分なんだなと気づかされました。下を見てしまっていたり、携帯に支配されてしまったり、音楽を聴くばかりになってしまったり、全てを一概に悪いとは思わないし、そういう風にいうつもりも無いんですけど、もう少し自然に生まれる「音」であったり、空気の「匂い」であったり、空の「色」であったり、日常の中で当たり前に在るそれらに触れてそれらを愛でてみよう。そうしたら、ほんの少し日常に彩りを添えられるだろうなあ。


形式主義

こういうお茶の世界であったり、まあそれだけじゃ無いんですけど、あらゆる世界で理屈では説明できないルールってあるじゃないですか。ともすれば理不尽なそれ。それをなんでかみんな重んじなければならないと考えるのが当たり前で、「なんで?」ってなることたくさんあると思うんですけど(これがある意味日本らしいのかもしれない)、劇中でも若い2人がなんで?ってなることに対して、先生はなんで?って、そういうものなのと話すことがあるんだけど、先生は先生なりに形式にこだわる理由を持ってるんですね。それが、「先に器を作る、そこに心が宿る」というものなんですけど、それってほんとにわたしのつまづきを解消してくれる革命的な一言で、なぜ盲目的に信じることのできるのかってことに対する一つの答えだなあと思いました。これでみんなが納得するとは思えないけど、わたしはそういった経験をしたことがあったし、ああそういうことかと本当に懐にストンと落ちてきました。この気づきを言語化するのはちょっとまだ難しくて全然できないんだけどとにかく革命的でした。


自分の手を信じる

なんども躓いているうちに、気づけばスッとうまくいってる時ないですか?頭じゃなくて、理屈じゃなくて、体が先に動いてる瞬間。わたしはすごく考え込む人だけど結構感覚も信じるタイプなのでまあよくあるんですよね、なんでこんなとこで躓いとったんやろ?って。自分の手を信じなさいと先生が若い2人に伝えるシーンがあるんですけど、そのときああこれって、とどのつまりは「自分の経験を信じる」ってことなんだなあと思いました。


この映画ほんとに偶然だったけど見てよかったです。いろんなこと考えた。

あと最後になりましたが、樹木希林さん、本当に素晴らしい女優さんだったなあと。いろんな映画でいろんな希林さんを見てきましたが、ほんとに演じてらっしゃるときは希林さんの個性を生かしているけど、でも自我はそのフィルムにないんですね、だから確かに存在感も圧倒的で、いつも当たり前のように多くの映画に存在するのに、希林さん自身はいないんですよ。確かに希林さんだとわかっているのに、いつもその役で佇む。矛盾が共存してるんですよね、とっても自然に。

そんな当たり前が当たり前じゃなくなって、また一つ日本の映画が変わる時が来たのだなあと静かな予感がよぎります。
名女優、樹木希林さん、どうぞ安らかに。

それでは、また